起源
言葉を記録する・・・。それは数千年もの昔から人間の営みの中で行われてきた行為です。文字が発明され、それを記録するためにさまざまな媒体が使われてきました。
羊皮紙の歴史は古く、最も古い記録はエジプトの第4王朝時代(紀元前2500年ごろ)まで遡ります。当時のエジプトでは、パピルスと共に動物の皮に文字を書いた記録があります。ただし、この時代は今でいう「羊皮紙」ではなく、革製品のようになめしてある「レザー」だったようです。エジプトではパピルスの原産地だけあり、原料の豊富さで、パピルスの方が主流でした。
このような動物の皮は、紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシャでも筆写に使われていたことが粘土板の記録から分かっています。粘土板には、当時の書記の種類として、「粘土板書記」と、「獣皮書記」がいたことがはっきりと書かれているのです。現在のイラクにあるバビロニアと、現在のイランにあるスサという都市の獣皮書記に記録が残っています。
また、紀元前5世紀ギリシアの歴史家ヘロドトスは、著書「歴史」で当時のイオニア地方(現在のトルコ イズミールを中心とするエーゲ海沿岸地域)で動物の皮に文字を書いていたと伝えています。
「また、イオニア人は昔から、パピルス紙のことを「皮」(ディフテラ)と呼んでいる。それは、昔パピルス紙が不足していたときに、山羊や羊の皮を代わりに使用したことに由来する。今でも多くの蛮族はそのような皮に文字を書く。」
<ヘロドトス「歴史」第5巻58>
動物の皮を洗練された「羊皮紙」として加工するようになったのは、上記イズミールに程近い(現在は車で2時間の距離)「ペルガモン」という都市といわれています(現トルコ ベルガマ)。茶色く分厚い動物の皮を、薄く滑らかな、筆写に適した素材に改良したのです。
紀元前2世紀、ペルガモンに大図書館が建設されました。そのために大量の書物を写すためのパピルスが必要となったのですが、パピルスの生産国エジプトにあるアレクサンドリア図書館との間で、アリストテレスの蔵書をめぐる激しい争いにより、エジプトの王プトレマイオス・エピファネスがパピルスの輸出を停止したといわれています。
これは、紀元1世紀ローマの学者で政治家のプリニウスによって報告されています。
プトレマイオス王とエウメネス王の間で図書館についての争いがおこり、プトレマイオスはパピルスの輸出を停止し、そのためペルガモンにて羊皮紙が発明されたとウァロは伝えている。その後、この素材が一般に広まり、人類の不滅性が確立した。
<プリニウス『博物誌』13巻21章70節>
ただし、理由には諸説あり、エジプトとセレウコス朝の戦争が激化し、パピルスの輸出ができなくなったという説や、単純にエジプト国内でのパピルス不足が原因であったとも言われています。
いずれの理由にしても、書写素材がなくなってしまう危機にさらされたペルガモンは、従来からある「動物の皮に筆写する」という方法をさらに進化させ、「羊皮紙」が作られたと考えられています。
トルコには今でもたくさんのひつじや山羊がいます。ペルガモンの遺跡からもひつじや山羊の骨が多く見つかっています。当時その肉を食べた後に残る皮は、日常的に手に入りやすい素材だったのでしょう。
ちなみに、「羊皮紙」を表す英語「パーチメント(Parchment)」は、「ペルガモン(Pergamon)」を語源としています。ペルガモン王国は後にローマ帝国の一部となり、ペルガモン産の羊皮紙がローマに供給されるようになりました。ローマ人はそれを「ペルガモンの紙」 = 「カルタ・ペルガメーナ(Carta Pergamena)」と呼び、その「Pergamena」が「Parchment」へと発展していったのです。
聖書
<死海文書>
死海文書とは、1947-1979年に死海のほとりのクムランで発見された、紀元100年以前の羊皮紙の巻物です。ヘブライ語で、旧約聖書のイザヤ書を始めとした1000近くの文書があります。約2000年を経た現在でも当時の文字が判読できます。死海文書は現在オンラインで閲覧ができます。自由に拡大ができ、羊皮紙の凹凸まではっきりと見えます。
<新約聖書>
羊皮紙は、新約聖書にも記述があります。イエス・キリストの使徒パウロが晩年の獄中で書いた手紙で、テモテという弟子に向けてこう言っています。
あなたが来るときには、わたしがトロアスのカルポのところに置いてきた外套を持って来てください。また書物、特に羊皮紙のものを持って来てください。
第2テモテ 4章13節
このころはパピルスの巻物と羊皮紙の巻物が混在している時期で、羊皮紙のよさが次第に浸透していったことも読み取れます。
<古代ローマ>
パウロが投獄されていたローマでも羊皮紙は広まっていきました。紀元1世紀、本の形態が巻物から冊子に移り始めると、折り曲げても破れない羊皮紙が次第にパピルスを駆逐していきました。紀元86年ごろ、文筆家のマルティアリスはこの新しい本の形態を自らの著書で宣伝しています。
私の詩を持ち歩きたいあなた、長旅のお供にしたいあなた、コンパクトな羊皮紙のページに書いたものをお買いなさい。大きい書物は本棚に置いて。この私の本はなんと片手で持てるのです。どこで売っているか分からなかったり、町中をうろうろと彷徨ったりするはめになってはいけないのでお教えしましょう。教養あるルケンシスの解放奴隷セクンドゥスをお訪ねなさい。場所は平和の神殿とネルウァのフォルムの裏です。
<マルティアリス エピグラム第1巻2>
この時代の羊皮紙冊子の断片が大英図書館に保存されています。裏の文字が透けて見えるほど薄い、上質な羊皮紙です。
中世ヨーロッパ
中世はまさに羊皮紙の黄金時代。聖書をはじめとする宗教書、歴史、物語など羊皮紙に書き記されました。当時の記録や作品は、非常に耐久性のある羊皮紙に書かれていたおかげで、数百年たった今でも当時の輝きを保っています。
特に14世紀になると、それまで教会しか所蔵していなかった書物が、広く一般にで広まるようになりました。聖句と祈りの言葉が書かれている「時祷書」という書物が、裕福な人々の間で流行ったのです。需要の拡大に伴い、それまでは修道院を中心として作られていた写本は、民間の写本工房で作られることが多くなりました。
イスラム
7世紀にイスラム教がアラブ世界で広まり、コーランの筆写が盛んに行われました。その際に使用されたのが、横長の判型の羊皮紙です。横長にしたのは、縦長の判型が主流のキリスト教の聖書と明確に区別ができるための目的があったと考えられています。
また、綴じ方もコーランには特徴があります。西洋の綴じ方は、本を開いたときに羊皮紙の毛側と肉側が左右ページで同じとなるようにしていました。これを「グレゴリーの法則」と言います。毛側と肉側では一般的に毛側の方が色が濃いため、こうすることで左右ページで色みを揃うのです。一方イスラム圏では、見開きの一方のページが毛側、もう一方のページが肉側といった形で、左右ページで色みが異なる写本が多く見られます。
西暦751年のタラス河畔の戦いにて中国より製紙法がイスラム世界に伝わりました。794年にアッバース朝の首都バグダッドに製紙工場が出来ると、コーランも羊皮紙から紙に書かれるようになっていったのです。
ユダヤ教
ユダヤ教は、死海文書の時代から変わらず、現在でも羊皮紙(主に仔牛皮)に経典を記しています。
ユダヤ教には、経典を筆写するための羊皮紙に関する厳しい規則があります。12世紀の学者モーゼス・マイモニデス著『ミシュネー・トーラー』には、以下のようなことが定められています。
- 動物: コーシャ(ユダヤ教として適正な)とされる動物でなければならない。つまり、牛、山羊、ひつじ、鹿などはよいが、豚は認められない。(蹄が分かれ、反すうする動物のみがOK)
- 使用面: 毛側と肉側に分割しないで皮全体(グヴィル)を使用する場合は、文字は毛側に書く。一枚の皮の厚みが分割されている場合は、毛側の方の皮(クラフ)の内側に文字を書く。分割されている肉側の皮(ドゥクスストス)は使用しない(テフィリンには使用可能)。
- 製造過程: 羊皮紙はユダヤ教徒が作ったものでなければならない。その過程で、「これは神のためである」というような文言を唱えなければならない。どうしようもない場合は非ユダヤ教徒でも可能だが、その場合はユダヤ教徒が立ち会う必要がある。モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は特にに、一頭の仔牛から一枚しか羊皮紙をとってはいけない。原則的には、表面処理目的でいかなる塗料のコーティングも認められない。聖なる文字と皮の間にバリアができるためである。
とまあとても事細かな厳しい規定があるのです。ユダヤ教徒の多いイスラエルは、現代においても羊皮紙の生産・販売が盛んなところです。
ルネサンス~近現代
羊皮紙は中世だけのものではなく、ルネサンス~近現代でも使用し続けられています。
装幀材料や絵画の支持体として羊皮紙は広く用いられてきました。
また特にイギリスでは、20世紀初頭までは不動産関係の契約書などに羊皮紙が用いられていました。つい最近の2016年まで、法律は羊皮紙に記録されていたのです。これは伝統的な素材で威厳を保つという目的の他、羊皮紙の耐久性による実用的な目的もあったでしょう。2011年5月のウィリアム王子とキャサリン妃の結婚証明書も羊皮紙にしたためられています。
また、アメリカやヨーロッパでは、大学の卒業証書が羊皮紙で渡されるところもあります。これも羊皮紙のもつステータスと、永久文書としての耐久性が要されているためです。
このように、羊皮紙は紀元前から現代まで、さまざまな用途や目的で活用されてきた素材なのです。